蜷川実花 with EiMが手がける『KYOTO NIPPON FESTIVAL』にて、ダンスカンパニー・DAZZLEと送るイマーシブ公演『花宵の大茶会』の先行上演会が開催された。
■歴史の時間の中に入り込む体験を味わうイマ―シブ公演
イマ―シブ公演またはイマーシブシアターとは、観客が客席から舞台を観るのではなく、物語の空間の中に入り込む演劇形式。2000年代にロンドンで生まれ、2010年代にニューヨークを中心に世界的に広がった。
その特徴は、1. 観客が空間を自由に歩き回る(回遊型)、2. どの人物を追うかで体験が変わる、3.同じ公演でも観客ごとに違う物語になる、という点にある。従来の演劇が「観る体験」であるのに対し、イマーシブシアターは「物語の中に入り込む体験」。近年、アートやエンターテインメントの世界では“理解する”こと以上に身体を通して“体験すること”の価値が重視されるようになっており、「身体ごと、物語に入り込む」イマーシブシアターはその象徴的な表現として注目されている。
◎歴史ある北野天満宮での蜷川実花 with EiMの鮮烈な色彩の世界観

本作の空間演出を手がけるのは、写真家・映画監督・現代美術家の蜷川実花率いるクリエイティブチーム・EiM。蜷川実花 with EiMはこれまで、美術館や展示空間でアートインスタレーションなどの「体験するアート」を展開してきた。
今回は、“空間を体験”するだけではなく、観客が登場人物のひとりとして入り込む“物語の体験”へと、さらに没入度が増す。空間演出を行うだけではなく、宮田裕章がコンセプトメイキング、蜷川実花とともに脚本からDAZZLEと開発し、演技のディレクションまで担当するなど、EiMとしても表現をさらに拡張する新しい挑戦となっている。
パーフォーマンスが繰り広げられる空間は、登場人物の感情を象徴する空間から構成されており、花や光による空間演出で、蜷川実花の鮮烈な色彩で映画の世界に入り込んだような体験を創り出す。演劇のために作られた舞台ではなく、北野天満宮の歴史ある建築の中で行うことで、北野天満宮の歴史が持つ、木造建築の空気感、その場所にしかない要素が作品の一部となり、観客は単なる舞台鑑賞ではなく歴史の時間の中に入り込む体験を味わう。
◎ダンスカンパニーDAZZLEによるパフォーマンス
本作はセリフのないノンバーバル公演で、日本のイマ―シブシアターを牽引してきたダンスカンパニーDAZZLEが、身体表現のみによって感情や物語を描く。観客は、演者の呼吸・身体のエネルギー・空間の緊張感を至近距離で感じる、フィジカルな没入体験を味わうことになる。
◎北野天満宮の持つ歴史と重なる『花宵の大茶会』
北野天満宮は、学問の神として知られる菅原道真公をお祀りする全国天満宮の総本社であり、平安時代より人々の祈りを受け止めてきた聖地。また、天正15年(1587年)に豊臣秀吉公が催した史上最大級の茶会として知られる「北野大茶湯」の舞台となり、さらに江戸初期には、歌舞伎の祖・出雲阿国がこの地で踊りを披露した歴史がある。祈りと祝祭、信仰と芸能が重なり合ってきたこの空間そのものが、本作における重要な舞台装置となる。
本作の物語は、豊臣秀吉が北野天満宮で開いた「北野大茶湯」をモチーフにしており、この茶会は、大名・町衆・茶人など、様々な立場の人々が同じ茶の場を共有した、日本文化史を象徴する祝祭空間だった。『花宵の大茶会』では「もし北野大茶湯に幻の二日目があったなら」という着想から物語が生まれた。
物語には、菅原道真をはじめ、豊臣秀吉・紫式部・土方歳三など、北野天満宮にゆかりのある歴史上の人物が登場する。しかし、彼らは単なる歴史人物ではなく、嫉妬・後悔・孤独・傲慢など、人間の内面にある感情の「影」として描かれる。社会の中では表に出しにくい「影」の感情を、身分差のない開かれた茶会の空間の中で解き放ち、やがて菅原道真が左遷の際に詠んだ「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」という、梅に祈りを託す和歌へと重なっていく。
来場者は鑑賞者ではなく、茶会に招かれた客人で、視線が合う、茶碗を差し出されるなど演者と直接関わる瞬間が生まれ、観客の行動によって場の空気が変わる。誰を追うか、どこに立つかによって体験が変わり、同じ公演でも体験する物語が変わる。観客は遠くから眺めるのではなく、登場人物として物語に入り込むことで、誰しもが持っている「影」の感情を、自分自身のものとして追体験することができる。
■登場人物紹介
◎傲慢(豊臣秀吉の影)
一代で頂点へ昇り詰めた茶会の主。彼がまとう黄金は成功の象徴であり、自らの価値を証明し続けるための鎧でもあった。かつて身分を超えた自由な場を夢みて大茶湯を催したが、自身の権威を誇示する誘惑に勝てず、人と人の間にあらたな垣根を作ってしまう。
奪い所有することでしか自らを満たせなかった孤独な覇者は、黄金の裏側で、かつて仲間と笑い合った「真の集い」という幻影に焦がれ続けている。
◎嫉妬(紫式部の影)
あまりに繊細な感性を持って生まれた藤色の客。その審美眼は、人のみならず社会の隅々にある真理さえも捉えるが、同時に彼女自身を苦しめる呪いともなった。
他者の放つ光や世界の美しさに気づきすぎるがゆえに、自らの心の重たさと影を意識せずにはいられない。比べることで世界を暗闇に染め、嫉妬という名の孤独に閉じ込められた彼女。その鋭いまなざしは、今や自らを追い詰める「呪縛」となっている。
◎虚無(清少納言の影)
かつて薄桜の客の世界は、仕えた中宮定子が体現する「光」そのものであった。類まれな感性で世界のきらめきを綴った日々は、その主の喪失とともに色を失ってしまう。表舞台を去った彼女の前に残されたのは、埋めようのない喪失と、虚無の深淵であった。
亡き主の打掛を抱きしめ、その姿を追い求めて彷徨う瞳には、もはや現実の景色は映っていない。過去の幻影に縛られ、透明な亡霊のように立ち尽くしている。
◎偽り(出雲阿国の影)
抑圧された時代のなか、自らを守るための「仮面」をまとった真紅の客。喝采と嘲笑の間で幾重にも嘘を重ね、虚構の自分を演じ続けるうちに、いつしか自らの本質さえも見失いそうになる。仮面を被らなければ舞台に立てないという恐怖と、見られるだけの存在から世界を見返したいという強い渇望。
偽りの内側で密やかに燃え続ける情熱は、嘘と真実の境界を曖昧にし、観る者を幻惑の渦へと引き込んでいく。
◎疑念(土方歳三の影)
理想を貫くため、冷徹な番人として仲間さえも疑いの刃で律してきた浅葱の客。彼が守るべき象徴を失い時代が反転したとき、かつて組織を守るための武器であった疑念は、自分自身を孤立させる影へと変わった。新しい時代を前にしてなお、別の道を選び続ける彼は、己の「誠」をどこに置くべきか。
静かに刀を撫でるその背中には、信念の重みに押し潰されそうな葛藤と孤独が滲んでいる。
◎羞恥(藤原時平の影)
謀略によって権威の頂点に立ちながら、この特別な宴における「招かれざる客」となった藤原時平の影。この墨黒の客を苛むのは、犯した罪が、もはや取り返しのつかないものであることへの絶望である。自らが陥れた道真の影に怯え、後世でも決して許されぬであろう醜悪な行いに、強烈な羞恥を感じている。
栄華を極めたはずのその身は、今や報復の恐怖と、逃げ場のない後悔に震え、影の底に沈んでいる。
◎梅の祈り人(菅原道真の気配)
かつて右大臣として朝廷の中枢にありながらも、不当な讒言によって太宰府へと左遷され、不遇のうちに生涯を終えた歴史上の人物を思わせる。本作の舞台である北野天満宮においては、菅原道真公を御祭神として祀るものである。道真公が都を去る際に詠んだ「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」の和歌に込められた「不在の者が残す、再生への祈り」を体現する存在として本作では描かれる。
絶望的な境遇にあってなお、人を呪わず、慈しみと詩の心を貫いたその精神は、この茶会においても、枯れた花や黒い短冊にさえ宿る美しさを静かに肯定する。停滞した場に清らかな風を通し、すべての人々に等しく春が訪れることを願う、静かなる祈りの象徴としてそこに在る。
◎風の案内人
能楽を大成し、「花」と「風」の理を説いた表現者を思わせる案内人。かつて権力に翻弄された過去を持つ彼は、道真の無念と孤独を深く理解し、この幻の茶会を見守る。今宵、彼は影たちの情念を否定せず、ただあるがままに空気を震わせる「風」として存在する。
観客を導き、舞台の余白を埋めるその所作は、影たちの物語を美しく輝かせるための洗練された呼吸そのものである。
■関連リンク
蜷川実花展 with EiM『KYOTO NIPPON FESTIVAL』イベントサイト
https://kyoto-nippon-festival.com/














