THE F1RST TIMES

REPORT

2022.01.24

宇多田ヒカルと特別な空間を共有。『BADモード』初披露の配信ライブに表れる、彼女の今の“モード”

TEXT BY 天野史彬

■アルバムが持つ空間的な繊細さと優しさを、バンド編成の演奏によって見事に顕在化させた

1月19日、新作フルアルバム『BADモード』の配信リリース日と同日(本人の誕生日でもある)の20時に、宇多田ヒカルはスタジオ配信ライブ『Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios』を開催した。

ロンドンのスタジオ「Air Studio」で事前収録された約1時間にわたるこのスタジオライブは、『BADモード』というアルバムが持つ空間的な繊細さと優しさを、バンド編成の演奏によって見事に顕在化させるライブだった。

“空間的”と書いたのは、このライブが始まる前に私が『BADモード』を聴くにつけて頭に浮かべた言葉で、サウンド全体のテクスチャーの綿密さと大胆さ、そこに生み出されているアンビエンスが魅惑的な本作は、私の粗末な語彙の中でも“空間的”という表現がしっくりきたのだった。

そもそも、『BADモード』というタイトルが興味深い。“モード”というのは“流行”などを意味する場合もあるが、もっと個人的な意味においての“気分”とか“調子”というふうに解釈することもできる。そして、“調子”というのは本来的に孤独なものである。体や心というのはその個人固有のものであって、それだけ、人には人の“調子の孤独”がある。

宇多田ヒカルの音楽は常に、彼女固有の“調子”と結びついている。それはこれまでの彼女の音楽が抱いてきた独自の抑揚、あるいは言語感覚からそう感じるのだが、新作『BADモード』において、彼女の“調子の孤独”は研ぎ澄まされつつも、開かれている。開かれているというのも、精神的な共感から辿り着く普遍性というよりは、もっと身体的に、“スペースがある”という感覚が近い。多様な音の動きと共に、様々な眼差しと気分と願いと悲しさと問いが交錯し、その中に、私たち聴き手も佇んでいられるスペースがある。

そして、その作品の姿には、音楽だからこそ、歌だからこそ、描き、生み出し得た、“調子”と“調子”のコミュニケーション、あるいは人間存在の在りようがあるような気がするのである。
自分のこんな考えを刺激するのは、ジャケットのアートワークも要因としてある。

Musical Director & Bass Jodi Milliner

1998年の1stフルアルバム『First Love』から一貫して、宇多田ヒカルのアルバム作品のジャケットアートワークは自身の顔を大きく映し出すものだったが、本作のアートワークには、ラフなスウェット姿の宇多田のほぼ全身が映し出され、彼女が佇むのが家の中のような空間であることが、見ると把握できる。また、印象として大きいのは右端に映り込んでいる子供の姿である。この子供の存在は、このアートワークに動きと、未知の生活感的なものを与えている。

珍しく他者がいる、そしていつになくリラックスした質感のあるこのアートワークを見ても、このアルバムで宇多田ヒカルが捉えようとしたのは、様々な時間の流れや関係性をはらむ“空間”だったのではないかと思えるのである。

Drums Earl Harvin

あるいはまた、こんなことも思い出す。本作の2曲目「君に夢中」と3曲目「One Last Kiss」、そして14曲目「Face My Fears(A.G. Cook Remix)」にはイギリスのアーティスト/プロデューサーでありレーベル「PC Music」の主宰であるA.G. Cookが参加しているが、彼と共に作品を作り続けてきたCharli XCXは、かつて自らの出自を“レイヴカルチャー”と定義していた。私はこのエピソードが大好きで、なぜなら、これが彼女の作る作品の、まるで幸福なクラブのフロアのように自由で折衷的な質感を捉える言葉だからだが、今の宇多田ヒカルもまた、そこに通じる部分があるのではないかと思うのである。

2016年の『Fantome』(「o」はサーカムフレックス付きが正式表記)以降、様々なコラボレーションを通して作品世界を拡張してきた今の彼女の音楽もまた様々な音や記憶、感情、性、文化が交錯する空間たり得ているのではないか。今の宇多田作品において、宇多田ヒカルの存在は主体・主観・主語であることに留まらない何かであり、あるいは彼女自身が、空間そのものであると同時に、その空間の中の“一部”なのではないか。螺旋のように。

Keyboards & Guitars Henry Bowers-Broadbent

改めて、Air Studioでのスタジオライブの話を。映像監督をRadiohead『In Rainbows – From the Basement』などで知られるDavid Barnardが、そして録音とミックスを『Fantome』以降、新作『BADモード』に至るまで音源のエンジニアも務めているSteve Fitzmauriceが手がけた映像と音は素晴らしく、宇多田と演奏者たちのいる空間の温かさや率直な複雑さが、パソコンの画面を通して豊潤に伝わってきた。

2018年のツアー『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』でもバンドマスターを務めたJodi Milliner(Musical Director & Bass)をはじめ、Earl Harvin(Drums)、Henry Bowers-Broadbent(Keyboards & Guitars)、Ruth O’Mahony Brady(Keyboards)、Will Fry(Percussion)、Soweto Kinch(Saxophone)、Reuben James(Keyboards)という7人の演奏者が宇多田と共に音を奏で、重ねる。その饒舌なアンサンブルは、解禁されたばかりのアルバム『BADモード』の新たな表情を早くも捉えていた。

Keyboards Ruth O’Mahony Brady

ライブの1曲目を飾ったのは、アルバムと同じく「BADモード」。音源ではFloating PointsことSam Shepherdが宇多田と共同プロデュースを手がけ、生楽器とエレクトロニクスがふくよかに融和した、ダンサブルかつ幻惑的な一曲である。このスタジオライブでは特に歌と楽器たちの繊細な重なり合いが肌を伝うように感じられる。宇多田の歌と、Soweto Kinchによるサックスがまるで囁き合うように絡まる様子も、とても親密で豊かな時間の流れを感じさせた。

続いて演奏された「One Last Kiss」は、音源においては前述したA.G. Cookが共同プロデュースを務めた一曲で、映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のテーマソングとしても話題になった。こちらもリズムはダンサブルなフィーリングを持ちつつ、より前のめりな推進力と全体として重厚な質感がある一曲だが、こうしてライブ演奏を映像で見るとより綿密な音の重なりに感動する。

ちなみに、先ほど演奏者たちの名を記した際にそれぞれのパートも一応書いたが、ひと口に“パーカッション”や“キーボード”といっても、このライブ空間にはあまりにたくさんの機材が用意されており、演奏者は曲ごとにそれぞれ楽器を変えて音を生み出していく。宇多田自身がキーボードを奏でる場面もある。その複雑に絡み合いながら全景を生み出していく様子、人と音の多様な関係性自体が、この空間の、今の宇多田ヒカルの音楽活動の、豊かさを感じさせるものである。

ライブは続いていく。3曲目に演奏された「君に夢中」は、その印象的なベースラインが音源における蠢くような静かな迫力を受け継ぎつつ、ドラムとパーカッションの動きにはライブならではの跳躍を感じさせる。これは「One Last Kiss」においても思ったことだが、このスタジオライブ映像に捉えられたドラムやパーカッションの音の質感はあまりに素晴らしい。輪郭のハッキリと見えるような、しかし、その奥に微細な無限の振動を感じさせるようなビートの質感である。

「誰にも言わない」は、音源においては『Fantome』以降の宇多田作品において重要な役割を果たし続けている小袋成彬が共同プロデュースを手がけた一曲。“一人で生きるより/永久(とわ)に傷つきたい”という、ある意味、『BADモード』というアルバム全体の詩情を集約したような歌詞の一節も印象的なこの曲は、自身の多面性を謳歌するように、なだらかに変化していく宇多田の歌唱と、その歌に導かれるように表情を変えていくバンドのアンサンブルが心地いい。その後の「Find Love」。この曲もまた小袋成彬が共同プロデュースで参加しており、ポップでリズミカルなエレクトロニックサウンドと歌の関係性に独特な響きが聴こえてくる。

Percussion Will Fry

ライブの中間地点、6曲目に演奏されたのは、こちらも小袋共同プロデュースの「Time」。ドラマ『美食探偵 明智五郎』の主題歌でもあったこの曲、初めて曲名を見たときハッとしたのは、その歌や歌詞の在りようも含めて、音楽の中でも“リズム”に対して鋭敏な感性を持つ宇多田ヒカルという音楽家を考えたときに、リズムに対して意識的であることは、すなわち“時間”に対して意識的であることだと思ったからである。音楽は多様な時間の流れを生み出すことができる。

たった一曲の中にも数多の時間の流れが存在する音楽というものもあるように思う。だが、時間が“流れる”こと、それ自体を止めるのは不可能だろう。再生すれば、いつかは終わりがくる。それは「Time」の中にある“溢した水はグラスに返らない”という一節にも表れている。どうしようもなく、時間は流れていくこと──宇多田ヒカルの音楽にある深い悲しさと、湧き上がるような強さは、そんな現実に対する眼差しから生まれているのではないか。

Saxophone Soweto Kinch

「Time」に続き演奏されたのは「PINK BLOOD」。“王座になんて座ってらんねえ/自分で選んだ椅子じゃなきゃダメ”という、凛としてしなやかな生き様を綴る言葉が、バンドの演奏と共に、空間の中を動く。そして、「Face My Fears(English version)」へ。

宇多田に加え、SkrillexとJason “Poo Bear” Boydという布陣で作られたこの曲は、ゲームソフト『KINGDOM HEARTS III』のオープニングテーマソングとしても話題となった一曲で、アルバム『BADモード』には“English version”と“Japanese version”、そしてA.G. Cookによるリミックスという3パターンが収録されている。原曲では宇多田の歌唱と、ドラマチックに、縦横無尽にフレーズが行き交うエレクトロサウンドの融合が新鮮な印象を与えたが、ライブでは楽曲の持つ静謐な迫力を全面に押し出したようなアレンジが美しく、猛々しい。

そして、ここでこのライブでは初めて『BADモード』収録曲以外の楽曲が披露される。2004年にUtada名義でリリースされた、ワールドデビュー作でもあるアルバム『Exodus』収録の「Hotel Lobby」。この日、演奏された『BADモード』収録曲以外の楽曲は、実はすべて『Exodus』収録曲だった。宇多田自身にとって、『BADモード』と『Exodus』の間に類似点が見出されていたのかどうか、本人の考えは定かではないが、今、改めて『Exodus』を聴き返せば、様々なコラボレーションを通した挑戦的なサウンドメイクを作り上げている本作は、たしかに『BADモード』と通じる部分があるように思えるが、それと同時に、もはや“宇多田ヒカル”と“Utada”を分ける必要性というのも、今の彼女のアーティストとしての自由さと奥深さを考えれば、ほとんどないのだろうと思えてくる。そのくらい、今の宇多田ヒカルというアーティストは様々なエッセンスが織り交ざって存在し、それが彼女固有の物語となって紡がれていく。

「Hotel Lobby」はトライバルなリズムの動きがチャーミングな一曲で、「Face My Fears(English version)」のシリアスな疾走感から一転、光のもとで跳ね、踊るような軽快さが空間に持ち込まれる。この曲はまた、改めて歌詞に目を通して見れば、“Catch me because I think I’m falling/I’ll be waiting in the mirrors of the hotel lobby”──“鏡の中で待っている”という、自己の中に深く潜っていきながら、広大に開けた領域へと到達していくような一節には、『BADモード』に通じるモチーフを感じさせもする。

Keyboards Reuben James

ライブはクライマックスへと向かう。続いて演奏されたのは「Beautiful World(Da Capo Version)」。「Beautiful World」はそもそもが映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の主題歌として2007年にリリースされた楽曲だったが、2021年に「One Last Kiss」と共に『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のテーマソングに改めて起用されることとなり、リメイクされた一曲。

こうして過去曲のリメイクも違和感なく最新アルバムの中に入れることができるところに、宇多田ヒカルの“変化”と“不変”の力を感じるが、それは、ライブの演奏においても然り。まず、アコースティックギターの切ない響きに始まり、そこにコーラスと各楽器の醸し出すアンビエンスが加わり、そして、歌が始まる。曲が進むごとに徐々にバンドの各楽器の主張も増していく、そこに渦巻く静かな熱がパソコンの画面越しにも伝わってくるようだ。

ラストを飾ったのは『Exodus』から、「About Me」。“私について”という明け透けなものを想像させるタイトルの曲だが、むしろ歌詞は謎を謎として、秘密を秘密として、描いているような曲である。この曲の中には、こんな印象的な歌詞がある。“Right now you’re sure that you love me/But are you really ready to know more about me”──“もっと私を知る覚悟は、本当にある?”という問いかけは、今の宇多田が歌うフレーズとしても鮮度を失わず、むしろより深く響く。何かを具体的に語っているというわけではないこの歌詞が、しかし、宇多田ヒカルという人物を非常に明瞭に告白しているように感じるのは、これが音楽であり、彼女が音楽家だからだろう。

「About Me」の穏やかな演奏で、ライブは締め括られた。直後、宇多田が演奏者たちの顔を嬉しそうに見渡し、そして、空間全体が拍手に包まれ、この日、このAir Studioで流れた1時間という時間の中で、宇多田を含め演奏者たちがどれほど幸福な時間を過ごしたかが伝わってくるようだった。私にとって、アルバム『BADモード』と、このスタジオ配信ライブは、切っても切れない関係性となって記憶に残り続ける予感がしている。

配信の最後、宇多田は視聴者に向けたコメントの中で、「普段は共有できない、本当に中の奥の方の、特別な空間を初めて共有できた気がしているので、皆もそれを感じてくれていたらいいなと思います」と告げた。

これだけのキャリアと支持を持つ音楽家が、「初めて共有できた」と語ったことの重さを感じるにつけて、やはり、彼女の音楽は彼女固有の “調子の孤独”を根っこに出発しているのだと感じるが、それでも、彼女自身の「共有できた」という言葉の中に、アルバム『BADモード』において到達し得た宇多田ヒカルの新たな空間を見るのである。


セットリスト

Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios
M01. BADモード
M02. One Last Kiss
M03. 君に夢中
M04. 誰にも言わない
M05. Find Love
M06. Time
M07. PINK BLOOD
M08. Face My Fears(English Version)
M09. Hotel Lobby
M10. Beautiful World(Da Capo Version)
M11. About Me


リリース情報

2022.01.19 ON SALE
DIGITAL ALBUM『BADモード』

2022.02.23 ON SALE
ALBUM『BADモード』



宇多田ヒカル OFFICIAL SITE
https://www.utadahikaru.jp/