木村 武士
nobodyknows+
A&Rプロデューサー
A&Rプロデューサー
ソニー・ミュージックレーベルズ
「日本中を踊らせないか」。
nobodyknows+が生み出したヤバイ、パーティチューン「ココロオドル」が愛され続ける理由とは。
「THE FIRST TAKE」の動画が公開から2週間で1,000万再生を記録したことをきっかけに、リリースから約20年が経った2022年に脅威のリバイバルヒットを記録したnobodyknows+の「ココロオドル」。収録中に歌詞を間違えるハプニングさえもメンバー同士が楽しみ、笑顔に変えてしまうグループの空気感。まさに当時のファンや若いリスナーを巻き込み、もう一度日本中の心を躍らせた“ヤバイ曲”となりました。
nobodyknows+というグループ、そして「ココロオドル」とは一体何だったのか? 圧倒的なライムセンスと秀逸なMCのセッション、そして心躍らせるメロディー。「ココロオドル」というパーティーチューンに込められた覚悟や挑戦、そしてリリース当時の制作秘話まで。今回は当時nobodyknows+のA&Rを担当し、彼らをブレイクへと導いた木村武士さんにお話を伺いました。
人の心をずっと騒がし続ける
名曲
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THE FIRST TIMES編集部員 (以下、TIMES編集部員)
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- 現在「ココロオドル」がリバイバルヒットを記録しておりますが、木村さんは楽曲の誕生からヒットまでをA&Rとしてご経験されたと伺っております。改めて、18年前の曲がヒットしている現状についてどう思われていますか?
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木村武士さん(以下、木村さん)
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- 20年近く経っても聴き続けてくれる人たちがいるのはすごいことです。パッケージの時代、ダウンロードの時代を経て、ストリーミングの時代になっても聴いてもらえるというのは、これが言葉として正しいかどうかわからないけど、名曲というか。少なくともこの曲には人の心をずっと騒がし続けるような何かがあるんでしょうね。
- 「ココロオドル」ですが、最初はどんな経緯で制作することになったのでしょうか?
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木村さん
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- もともとnobodyknows+はメンバー3人で契約していたんですよ。とても個性的で魅力のある3人だったんですが、いざ曲を出してみてもなかなか結果が出なくて。そんなとき、たまたま彼らの後輩のユニットだった「わかば塾」という、MITSUくんがプロデュースしていた子たちとちょうど一緒にライブをやることになったんです。
- 彼らが一緒にステージに出ているのを見て、ステージ上での強さというか、5MC1DJのチームになることに可能性を感じて。で、ある時MITSUくんと当時の同僚・土井(仁美)ちゃんと元々3人ユニットだったのを6人ユニットにしたらどうだろうかという話になり、5MC1DJの体制になりました。実はこれがユニット名に+がついたきっかけでした。
- なるほど! そんな経緯があったんですね。
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木村さん
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- でも実は、そのことを会社に何も相談せずに決めてしまったんですよ。そしたら、当時の上長がライブを観に来て、3人組だと思ったら突然6人組になってるからびっくりしたみたいで。「あれ、いつメンバー増えたんだ!?」って(笑)。
- 急に6人になってるという(笑)。
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木村さん
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- nobodyknows+って本当に面白いユニットで、ヒップホップユニットながら“情緒”があるなと感じていて。トラックメイキングとか、歌詞のフレーズとか、ライミングだったりも含めて、情緒があるっていうのが最初に引っかかった感覚でした。
- その後「以来絶頂」がリリースされたんですよね。これがnobodyknows+が名古屋に住み続けるきっかけになった曲だと伺っています。
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木村さん
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- 当時はまだインターネットがメジャーな時代ではなくて、東京に住んで活動をするのが一般的でした。でも彼らは、名古屋に住み続けたいと強く思っていたんです。ちょうど名古屋のクラブクアトロでのライブを組んでいたタイミングだったので、「クアトロをいっぱいにできるんだったら、名古屋に住み続けて活動したら」と条件を付けたんです。
- クアトロでのライブは動員記録になるぐらい超満員になったんですよね。当時からすごい熱量だったのが伝わってきます。
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木村さん
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- だけど、セールスはそこまで振るっていたわけではなくて。名古屋ではすごく熱い状態になってきたけど、全国的にはまだまだでした。今考えたらすごい早いタイミングだったのかもしれないんですけど、このままの状態ではダメだからと次の曲の制作を急いでいました。
- とにかくブレイクするかどうかに論点を置いて本当に真剣にやっていて。すごく試行錯誤した中で「ススミダス→」ができました。
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- 「以来絶頂」ではサビがありませんでしたが、「ススミダス→」からは明確にサビを設けていますよね。
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木村さん
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- もともとラッパー集団というか5MCなんでサビを歌うことがなかったんですけど、やっぱりこの国で広がっていくにはメロディーが必要だろうなと思っていて。あとは情緒深いトラックメイキングをするMITSUくんだからこそ、ちゃんとサビにメロディーをつけた方がいいんじゃないかと考えました。
- 当時、ナシ(現:ホクロマン半ライス!!!)が初めて作った「ススミダス→」のサビメロが本当に正解かどうかっていう確信はなかったんですけど、でも聴くたびに「やっぱこれいいな」って感じていて。それでとにかくその曲を信じてやっていきました。当時CDが2,000枚、3,000枚ぐらいだったところから5万枚ぐらいまでググっと売れていきまして。
- サビの力ですね。
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木村さん
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- ただそのセールスもその時まだ全国的ではなかったんですね。次のシングルも出したりして、もちろんいい曲だったんですけど特にセールスは振るわなかった。で、その頃はとにかくヒットに向かって必死になって制作を詰めていたので、徐々にメンバーも疲弊していた感もありました。
- 5MC1DJの体制になってから「ススミダス→」のリリースまで、すべてが2003年の出来事ですね。きっと制作していく上でのストレスもあったように感じます。
「日本中を踊らせないか」。
メンバー全員で再起した瞬間
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木村さん
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- ある日急に「もうこれ以上はできない感じがある」みたいな話をされて、それで慌てて名古屋に行って、まずはMITSUくんといろいろな話をしたんです。で、メンバー全員が同じ気持ちでやれるんだったら続けようということになり、急遽メンバーも集まってみんなで腹を割って話し合いました。
- そこから「やっぱりもう1回チャレンジしよう」となって、パーティーチューンっていうのは彼らの魅力を伝える上でとても重要なことだったので、「もう一度パーティーチューンで日本に挑戦しよう」となりました。
- 原点に立ち戻るというか、「以来絶頂」というパーティーチューンがnobodyknows+の魅力を最も伝えていたということですね。
- それが「ココロオドル」が生まれるきっかけだったんでしょうか?
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木村さん
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- それと、自分は覚えてなくMITSUくんに言われたのですが、契約当初「日本中を踊らせないか」って伝えたという言葉も心に残ってくれていたと。今も昔もその気持ちはすごくあって。その時のメンバーの話し合いでも「心躍るものをやろう、心躍る曲を作ろう」みたいなことになりまして。
- 確かに、nobodyknows+だったら、日本中を本当に踊らすことができるんじゃないかなとずっと思っていました。
- 曲名が決まる前の段階で、“心躍る”っていうワードは出ていたんですね。
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木村さん
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- そうですね。で、みんな心躍るときってどういうときなんだろうと、それぞれが心躍る瞬間を出し合って曲の制作に向き合いました。たとえばクラブに入る前に並んでいるときに、クラブの音が聴こえてくるあの瞬間ってすごく心躍るよねとか、思い思いにアイデアを出して。
- それが歌詞になっていったんですね!
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木村さん
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- そうですね。ヤス一番?は「エロビデオを借りて自転車の前かごに入れて家に帰って、ビデオデッキに入れてボタンを押すまでの間が心躍りますね」って言ってたんですけど(笑)。
- Crystal Boyさんの「ボタンひとつで踊る心が」の歌詞に繋がってるんですね! めちゃくちゃ採用されて残ってる(笑)。
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木村さん
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- 心躍るときってどうなんだみたいなことをみんなで言い始めたときのワクワク感とか、真剣なんだけど仲間内だけのちょっとしたふざけた感じというか、そういう感覚があったのを覚えています。MITSUくんを中心に、仲間ということをちゃんと形成していけるチームなんです。
- ほかにもメンバーとのやり取りなどで、何か印象的なことはありますでしょうか?
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木村さん
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- 制作で印象的だったなと思うのは、床の間にマイクを置いてレコーディングしていたことです。MITSUくんが借りてたマンションに、ちょうど大人ひとりがスポッとはまるような床の間みたいなスペースがあって、インディー時代はずっとそこでレコーディングしていたんです。で、いざメジャーデビューして、東京でスタジオを借りてレコーディングしたんですけど、なぜか良くなくて(笑)。
- スタジオで録った感じと床の間で録った感じでは、何かが違うんですよね。音の綺麗さはスタジオの方が間違いなく良いんですけど、床の間で誰かが歌ってるときに、その裏でずっとみんな息を潜めて声を出さないようにしてる感覚とか、あの空気感。みんなが真隣にいながらずっと歌ってるような空気感の有る無しで、すごく違う気がして。だから、実はこの「ココロオドル」もその床の間でレコーディングしたんですよ。
- まさに、床の間から紅白ですね。
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木村さん
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- 今でこそベッドルームミュージックというジャンルも確立されているけれど、当時は自宅で録っている音楽を、メジャー流通に乗せるということは多分それほどなかったと思います。
- ここまでのセールスを出すことも含めて、時代の先駆けのような感じですね。
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木村さん
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- バイブスがありますよね。
- スタジオの機材をバイブスが上回るという(笑)。
戦略的ではなく本質的。
nobodyknows+だから
生み出せた世界観
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TIMES編集部員
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- 楽曲の宣伝はどのように進めていかれたのでしょうか。
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木村さん
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- 若い宣伝部の社員とか、クラブ好きの同僚とか、アシスタントの子とかを見つけては聴かせて「これいいですね」って言わせるような感じで(笑)。当時はまだまだ僕も駆け出しの制作マンで、誰もそんなに振り向いてくれることもなかったので、とにかく若い人から巻き込んでいこうと思いました。
- お祭り感を演出するというか。
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木村さん
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- そうですね、とにかくゲリラ戦で(笑)。あとnobodyknows+は友達バイブスみたいなのが本当にすごくて、一緒に仕事をした人たちがみんな仲良くなっていくんですよ。
- 良いと思ってくれた人と仲良くなっていくスタイルというか、とにかく人を巻き込んで大きくなっていくグループなんですね。
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木村さん
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- きっと彼らの魅力は、そういう人懐っこさだったり、愛着を感じる感覚なのかもしれません。
- 最終的には「みんなで売ろう」みたいな感覚になっていったんですね。
- 当時のCMもすごかったと伺っています。海外のロックバンドさながらのモッシュ状態の映像からはライブ会場の熱気が伝わってくるようでした。
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木村さん
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- アルバムのリリースのときに何かやっぱりインパクトを残すCMを作らなきゃなと思っている中で、名古屋のダイヤモンドホールでやった実際のライブ映像を使ったんですよ。定点カメラで会場の様子を撮っていた映像があったんですけど、会場が揺れるような、とてつもない盛り上がりだったんです。その画がインパクトがありすぎて、CMに利用したんです。
- パーティーチューンをずっと作ろうと思ってきたことと、フェスが盛り上がるみたいなところのブランディングがうまい形でずっと進んでいって、ライブにたどり着いてる感じがあったのかもしれないですね。
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木村さん
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- でもあれは僕が特別なことをしたんじゃなくて、nobodyknows+の実力というか、もとを辿ればMITSUくんが名古屋で描いていたイメージでした。そこに僕たちも一緒に入って拡張した感じです。
- MITSUさんはメンバーの後ろ支え的なポジションでありながら、あまり表には出てきていないですよね。戦略的なタイプなのでしょうか。
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木村さん
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- 戦略的というよりも本質的っていう感じです。なんで音楽をやるのかとか、自分たちが音楽をやる理由や状況なんかに対してとてつもなく本質的な人でした。
- そういえば、nobodyknows+として大切なある局面のとき、早朝、約束もしてないのにMITSUくんが急に会社に来て。「あれ、なんか予定あったっけ?」って言ったら、「いや、ないです。夜行バスに乗ってきました」って。何かあったのかなと思ったら、悩みすぎて数日間山奥に失踪していたらしく。「勝ちに行きます。それだけを言いに来ました」と宣言されたこともありました(笑)。
- すごいですね(笑)。それは貪欲さの表れなんでしょうか?
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木村さん
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- 多分、まずその瞬間は勝つってことが大切だったんじゃないかなと。そのときの彼は本当に勝つことにシフトしていて、それで2MCから5MCへ体制変更も半ば強行して、結果的に本当に勝った。「音楽を何でやるのか」とか、「自分たちの暮らしの根源って何なのか」、自分たちがどう生きてどういうふうに生活していくのか? っていうことを、常にちゃんと考えながらやっていて、それも、すごいカジュアルな感覚で。
- だからソニーミュージックを離れてからも、彼らは音楽活動を続けながら、それぞれ飲食店をやったり、服屋さんをやったり。ノリ・ダ・ファンキーシビレサスはプロレスラーをやってました(笑)。アーティストと平行してそれぞれが、別の道を切り拓いているんだと思います。
- MITSUさんの求心力と、楽しむこと、考えることのバランスが取れていたんですね。
- 話は変わりますが、リリースされて1年経たずに「NHK紅白歌合戦」に出場するというのは、当時のヒップホップグループとしてはかなり異例のことでしたよね。
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木村さん
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- 当時、個人的には一種のブーム的なことで去ってしまうのはあんまりよくないような気もしていて。だから紅白出場に関してはすごいありがたいお話ですけど、どうすべきだろうと悩んでいました。
- メンバーの皆さんはどんな反応だったのでしょうか?
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木村さん
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- 「おばあちゃんが喜んでくれる!」って(笑)。結果的には出演させていただいて正解でした。無理に背伸びをしたり変なことをしないで、等身大で臨んでいこうみたいな感覚があったのも良かったのかなって気はしています。
「THE FIRST TAKE」出演が、当時の熱量を再燃させた
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TIMES編集部員
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- 「THE FIRST TAKE」に出演されてからの人気の再燃ぶりは目を見張るものがありましたよね。
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木村さん
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- “心躍る瞬間”はいつの時代も共通していると思うし、そう考えると「ココロオドル」は多分、いつの時代に聴いても心躍る楽曲なんじゃないかなと思いますね。
- g-tonさんは脱退されてからニューヨークにお住まいだと伺いましたが、オリジナルメンバーが揃った姿が見られたのは感慨深かったです。
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木村さん
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- この撮影のときにg-tonって今どうなのかなって聞いてみたら、ちょうど一時帰国していると。スケジュールを聞いたらその日は大丈夫みたいな話になって、全員が揃ったんです。だからメンバーもg-tonが入ったパフォーマンスをするのは久々だったんじゃないですかね。
- 僕もフルでオリジナルメンバーと集まって会えたのが、本当に久々でした。で、会ったら会ったで、もう本当に20年前の関係に戻るというか、本当にくだらないことを延々と言ってる感じで。本番では、今までに何百回と歌ってきたにも関わらずミスするし(笑)。
- でもあの雰囲気がnobodyknows+らしいというか、「ミスしてるのが良い」というコメントもあって、ああいう雰囲気も含めて受け入れられているんだと改めて感じました(笑)。
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木村さん
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- ミスしたときは本当に「あーっ!」って思ったんですけど。でもその合間合間に入ってる自分たちが失敗したことを照れて笑いながらやる感じこそがnobodyknows+の良さを象徴していて、この人たちっぽい。出来上がったものを見たときに、なんかもう僕もケラケラ笑っちゃって。電車に乗っているときとかにもあれを見たくて仕方なくなって、つい何回も見ちゃってます。
- ヤス一番?の「ちょっと間違っちゃったけど」みたいな一言も、何千回もステージ踏んでいないとあの尺でああいう盛り上げはできないし、本当に素晴らしいライブパフォーマーになったんだなと思いました。
海外にも国内にも似た曲がない。唯一無二のロングヒット
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TIMES編集部員
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- これだけの長い期間、日本中で愛され続けるパーティーチューンって本当に稀だと思うんです。改めて、木村さんから見てここまでヒットした理由はなんだと思いますか?
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木村さん
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- すごく端的に振り返って言っちゃえば、似たものがないことですかね。音楽業界って、どうしてもある種パターン化してくるものだと思うんです。当然別にそれは悪いことでもなくて、海外のヒット曲をモチーフにして、次にどういうアイデアを出すかとかいうのは、今に始まったことではないですし。ヒットした曲のエッセンスを分析して制作に反映することもありますが、「ココロオドル」は例外。海外に似たようなものあるかって言われてもないじゃないですか。
- 海外もそうだし、国内でも思いつかないですよね。
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木村さん
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- やっぱり「ココロオドル」は、nobodyknows+が培ってきたものの中からしか生まれない曲なんですよね。すごくふざけてるけど、ちゃんと考えてるみたいな。この感覚は僕自身とてつもなく大好きなんですよ。ただふざけてるだけじゃないし、だけどただ真面目なだけでもないっていうところは一緒にいて面白いと思うし。
- 本当にグループとしての魅力も唯一無二だと思います。
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木村さん
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- 僕もメンバーと一緒になって心の底から笑い合ったり泣き合ったりしたし、こんなに感情の起伏が激しく向き合ったグループはめったに無いです。自分としても、ある種の恩人だし、かけがえのない仲間です。だからこそ彼らにも、今リバイバルヒットしていることを嬉しいと思っていてほしいですね。
- 「日本中を踊らせないか」という当時の木村さんの言葉。その一言こそが「ココロオドル」というヤバイ曲の出発点のひとつであり、nobodyknows+というグループの原点でもあると感じられる、素晴らしいインタビューでした!
- 「THE FIRST TAKE」への出演や普遍的なテーマはもちろん、何よりもメンバーや木村さんはじめとするスタッフの音楽を楽しもうとする気持ちがあるからこそ、文字通り今も世の中の心を躍らせ続けているのかもしれません。
- きっとこの先何度も聴いてしまうであろう「ココロオドル」ですが、編集部員も今一度この曲を聴いて、ヤバさを体験してこようと思います。
- 次回もお楽しみに!
木村 武士
1996年ソニー・ミュージックグループ入社。宣伝、制作A&Rを経て、現在は第三レーベルグループ副代表。